妄想サンバ

助走をつけた妄想がやがて暴走していく文章になる

死にゆくものと生き残っ(てしまっ)たもの

 友人が亡くなった。自殺だった。19歳だった。ここから先何もとりとめもなく文章が続いていく。何も構成を考えていない。許して欲しい。長くなるかもしれない。同じことを二度書くかもしれない。でも、それはすべて俺の考えの足跡だと思って許して欲しい。

 俺と彼は高校の時からの付き合いで、まだ4年ぐらいしか経ていないけども、高校の時にはじめて出来た友達だったし、最重要の友達であったことは確かだ。少なくとも、俺達の友情を疑うことはなかった。

 だが彼は死んだ。なぜだろう。

 いま、彼がなぜ死んだか考えるのは不毛だった。彼の死が不毛だとか、ましてや彼の生が不毛だったとは思っていない。少なくとも彼の生は、戦いは価値のあるものだった。それは等しく、人類に与えられる人生という戦いの中でもかなりの価値を得ていたはずだった。

 だが、なぜ彼が自殺したのだろうということを考えずにいられない。答えはない。未来に希望はないからか。じゃあ、俺も同じように感じている今、なぜ生きているのだろう。

 わからない。俺の人生にはわからないし、俺の人生が進んでいく中で、俺の感情のスタンスはそのスタンスを得た根拠が分からないまま湧いて出たものだった。何もかも分からないまま突き進んでいっている人生を、俺は何も分からないまま眺めている。

 彼はそうではなかったかもしれない。あるいはそうだったかもしれないが、そういった自分が許せなかったのかもしれない。もう何も分からない。結局、彼の死も俺の人生の「わからない」というピースに回収されて、咀嚼されて、終わるのか。

 終わらせたくなかった。彼との関係を考えた時に、そんなことで、「わからない」なんてそんな大まかなカテゴライズで終わらせられるほどの存在ではなかったし、そう扱っていたくもなかった。

 彼は俺に「幸せに生きてください」と言った。彼は不幸だったのか。それは分からない。幸せかどうかなんて、他人が決められるような基準ではない。そう思う。

 では俺は幸せであったのか。間違いなく幸せな人生を歩んでいるとは思えなかった。幸せな人生を歩むことへの嫉妬に満ちあふれている。もしかしたら俺のそうした言動が、彼の幸せを蝕んでしまうような結果になったのではないか。もう何も分からない。

 ふつう、人は「自分は幸せだ」と感じる時に幸せであると感じることはない。それは後から思い出すように「あの頃は幸せだったね」と追憶する形で現れる。じゃあ、「幸せになってください」って一体なんなんだ? 俺がこの先、天寿をまっとうするその瞬間に「幸せだった」と言えるだろうか。でも彼はそのような状態になってくれと祈った。

 幸せになりたいと祈って幸せになれることがあり得るのだろうかと思う。自分の経験を思い返すと、そんなことはごく僅かな成功しかなかった気がする。いつも、俺が幸せだと感じるのは当初考えていたこととは全く別のように物事が展開していって、結果的に「あ、あれは幸せだったんだ」と気付く、そのプロセスだ。

 彼との日々もそのプロセスだった。彼と出会ったのは高校に入って一番最初の日だった。そこからどんどん仲良くなっていた。少なくとも、一番最初に仲良くなってはいなくても、5番目くらいにはもう仲が深くなっていて、そして俺達の関係は高校を卒業しても続いていた。俺が大学受験に失敗して浪人することになっても、彼は時に鋭く、怠けた生活を続けた俺にツッコミを入れ続けていた。そうしたことをずっと繰り返していた。幸せだった。俺の生活が苦しくても、でも友達さえいればなんとか幸せに、その日限りでも楽しい気持ちで終われる。そんな毎日だった。

 でももうそれももう終わった。涙を流しながら、苦い表情で、でもどこか楽しげな表情で、記憶の中で彼と戯れていた時間を追憶することしか出来ない。彼と再び幸せな時間を構築することは出来ない。その機会は絶たれてしまった。

 なぜ俺は今涙を流しているのだろう。覚悟は出来ていたはずだ。彼はもう随分前から自殺を仄めかし続けていた。俺はそれを積極的に止める必要があったはずにちがいない。でも、それをあえて積極的に止めなかったのは俺本人のはずだ。じゃあなぜ泣いている? 彼が一切の苦しみから解放されたことは喜ばしいことに違いないのに、なぜ泣いている?

 「もっと強く自殺を止めておけばよかった。半ば強引に止めるべきだった。そうに違いない」そういう後悔からの涙があるのも間違いない。でも、その後悔は俺の後悔だ。俺が後悔しなかったからといって、彼の人生が幸せになるかどうか、責任は大きすぎて俺の小さな両腕では抱えきれない。

 「悲しい」という感情もそうだ。今俺が悲しい思いをしたくない、それだけのために、彼の自殺を止めることは出来ただろうか。

 そして、そのようなすべての後悔や悲しみは、俺一人のものであることに違いはないだろう。俺の後悔や悲しみが消えたからといって、では彼の悲しみが癒えるかということはない。そして事実、癒えなかった。

 彼の未来がささやかな希望とささやかな幸せに満ち溢れたものである。と僕ははっきり断言できなかった。もちろん、そのことは考えていた。人間は常にささやかな希望とささやかな幸せに支えられて生きている。たまにそれを叩き潰そうと巨大な絶望が立ち現れるが。大抵は負ける。人生は戦いだ。負け戦だ。だけど、絶望に負けて、ズタボロにされた俺の心の傷口からささやかな幸せと希望が芽吹き出す。だからまた人生に向かって挑んでいく。必ず負ける。その繰り返しだ。時々勝つこともある。

 これが、俺は人生という営みで最も美しいところだと思っている。だから人生は戦いなんだ。生きているだけで俺達はずっと戦い続けてきた。でも、幸せではない。美しいかもしれないし、価値もあると俺は思っているけど、これは幸せな生き方ではない。

 俺の人生の営みをそのまま彼に適用するにはあまりにも傲慢すぎるが、彼はこのシークエンスに耐えきれなくなったのではないか。この無意味な戦いに。育てた幸せが花開いてそのまま枯れていってしまうというような、そういう消耗戦に。

 俺はそうした彼の戦いを、生き様を限りなく賞賛し続けることになると思う。最後に自殺という道を取ったからではない。彼は幸せな息吹が何者かに吹き消されることを嫌った人間だったのかもしれない。大事に育てていた希望の芽が摘まれた時、本当に悲しんでいる人に違いない。そして、それが出来るということは彼は限りなく、そして間違いなく優しい人物であったに違いない。

 ここからは完全に俺の推測で、親しい友人にも大ツッコミを食らうかもしれないけど、そうした優しい人物が、耐えられなくなったのかもしれない。優しければ優しくあろうとするほど残酷な人間になっていくこの分裂的な生き方に耐えられないのかもしれない。なぜか。彼はやさしいから。やさしい人間が、無意味とも思えるようなもののためにわざわざ希望の種を傷口に埋めるようなことを延々と繰り返していれば、そは純粋に、自分自身の無意味さを感じ取るのではないか。希望の種にやさしくしようとしたとき、彼は死を選んだのかもしれない。俺には出来ない。そして俺の友人たちの間で出来るような人間もいないだろう。

 俺たちは普段からこの欺瞞から目をそらしながら、それでもなんとか生きている。彼は欺瞞を許さなかった。正義感が強いとかそういうことは特に思ったことがなかったけど、でも心の中での正義感はきっと強かったはずだ。彼は生の欺瞞のあまりの醜悪さに直視できなかった。だから死んだ。不謹慎であまりにも下卑た言い方をすれば、崇高な死、ということになる。

 じゃあ今俺が感じている後悔や悲しみはどうやって説明すればいいのだろう?

 いま、ここまで延々と書いてきてはじめて思いついた。「彼の自殺を止めなかったから」「彼の死が悲しいから」だ。

 延々と書いてきて、結局これだった。俺は彼の自殺を止めるべきだったのだ。それは、俺が悲しいというエゴイズム的な理由もそうだったに違いない。けど、最も止めるべき理由は彼の戦いが価値あるものだからだ。こんな優しい人が死ぬなんてことはあっていいわけないからだ。代わりに俺が死ねばよかったんだ。こんなゴミみたいな俺にも優しく接してくれた彼が自ら死を選ぶなんて、そんな悲しい結末があっていいはずがないからだ。

 これはエゴだ。俺のエゴだ。だがエゴで何が悪い? 結局、この先彼が生きたとしても先に書いたのと同じように、彼の人生そのものが苦しみで、辛くて、みずから命を絶ってしまいたいという状態に陥るかもしれない。

 でも、彼がそうなったら、俺が彼に寄り添って、彼の苦しみを幸せで潰していくべきだった。人間の欺瞞なんて許せないけど、倒すべきもので、そして人間の欺瞞に彼が立ち向かう後押しをやってやるべきだったんだ。俺は、今気づいた。彼を助けてあげる、は傲慢だとしても、俺は彼に寄り添うべきだった。

 でももうそれは許されない。彼はもういない。

 俺は結局これを書いてどうして欲しいのだろうか。悲しみや後悔を慰めてほしいのだろうか。自分の人間としての浅薄さが嫌になってくる。そしてそれは人生の欺瞞へと通じていく。

 こんな文章を書いてももう何もならない。彼は生き返らないし、楽しい日々は戻ってこない。

 だけど彼は俺に生きろと言った。多分それはこの欺瞞と戦えってことだ。

 そのきっかけを今、この文章を書きながらつかもうとしている。

震災から六年が経ちますが俺にはそんな関係ねえよ

 日本男児なら震災やなくて終戦の日に思いを馳せるべきちゃうんか!?!?!?と思っていたら昭和天皇が夢に出てきたので初投稿です。

 俺も日本男児の端くれとして震災の日には黙祷を捧げたる!と思ったら起きたら三時過ぎてました。本日の真人間プロジェクトも失敗に終わり、意気消沈しながらここでタバコを一服。

 エモい気分になりたかったのでサザンオールスターズTSUNAMIを爆音でブラストセクション。これは逆張りオタクの論理ですがそもそも黙祷って誰に向けてやってるの? 私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません。

 震災から六年だね~早いね~という会話を道行く人々がしているようだが、でもお前ら今東京でそんな会話してるってことは震災のときは無事だったんじゃん! 早くない! この地獄のような六年間! 俺の精神も震災が起こってTSUNAMIがざっば~ん。おい全然侘びしくねえよ桑田佳祐どういうことだコラ。

 書くべきことは全くありません。感傷的な気分になったのでトマス・ピンチョン重力の虹を読んでいるのですが読書力(どくしょぢから)が衰えているので数行読んだだけで息が上がってしまった。

 あ~東京で地震起きねえかな~ そしたら俺も楽に死ねるのにな~

 そんなこと思いながらウンコしてたらキラキラキラと鳴ってから俺の左肩に天使がやってきました。

「ダメよ公的! そんなこと思っちゃダメ!」

「うるさい偽善者! この国はもう一回焦土にならなきゃダメなんだ!」

「なんでひとの不幸をそんな簡単に願えるの?」

「俺が不幸だから」

「じゃあなぜ、あなたはここにいるの?」

(無言)

 あ、ヤベ、俺の天使って綾波レイのことだってバレちゃったじゃん。俺は滝本竜彦か。まあ俺は惣流・アスカ・ラングレー派なんだが。

 惣流・アスカ・ラングレーに「あんたバカァ? 足でちんこしごかれるのがそんなにきもちいいわけ?」って罵倒されながら足コキされてえ……と思いながらマスかいてたら親が帰ってきました。自殺します。さようなら。

 まあ今日死んだら3.11の精神に殉じたってことで美談っぽくなりそうだしな~。

あの日々は消えてもまだ夢は消えない

 今日は無限におしっこを出し続ける夢を見ていましたが、あれはトイレに行けというメッセージだったんでしょうか。起きた後三分ほど排尿してもまだ出続けるおしっこを眺めながらそう思いました。

 日記です。書くべきことはないですが、睡眠薬が切れてしまったために七時にねて15時に起きる最悪のリズムになりました。睡眠薬がないと何も出来ない人間です。僕は。

 その後タバコを一服吸い精神科へ。先週は混雑していましたが今週はかなり空いていたためすぐ診察。ラッキー。

「何か変わりありませんか」

「いえ、特にないです。良いこともなければ悪いこともないです。それが悪いことといえるのかもしれませんけど」

 タバコ吸いたいなあ。この無意味なやり取りなんか意味あんのかなあ(重複表現)。死にたいなあ。工事してる音がうるさいなあ。

 精神科医がジャージ姿でマスクをしており、鼻をすすっているので風邪かと思ってビビりましたが、ビビる理由どこにもなかった。俺、受験終わったんだ(人生も終わっています)。

「そういえば受験はどうだったんですか?」

 そういえばて、そういえばてお前。

「落ちましたよ」

「ああそうですか……来年どうするんですか?」

 それは俺が聞きたいよ。

「いや、まだ何も」

「予備校とか行かないんですか?」

「行けたらいけますが、授業料が高いのでどうしようもないです」

「ふ~ん」

 気まずい沈黙。あれ、そういえばそんな曲あったよな? さらさらさら、精神科医がカルテにボールペンで字を書くのを眺め続けています。ここで、一大決心をして俺はあるお願いをします。

コンサータ出す資格って、先生にないんでしたっけ」

「え、そうですけど やっぱりコンサータ欲しいの?」

「はい」

「う~ん なんで?」

「いや、このまま何も変わらないなら新しい薬を飲んでみたいな、と思って……」

「あまり賛成はしませんけどね~ どうしても欲しいなら他の病院に行きますか? 紹介状なら書きますよ」

 軽いな。

「来週までに考えておきます」

「まあでも、君の場合はコンサータとかじゃなくて生活の枠組みを変えることが必要だから、予備校通ってリズムを整えた方が良いですよ。あんまり、私はどうかと思うけどね。生活リズム整えて、軽く運動して、予備校行って、それでいいんじゃない?」

 それが出来ねえからここに来てんだろうがと言いかけましたが、僕は大人なのでグッと堪えます。掻い摘むとこのような会話をして診察は終了。先週と全く同じ内容の薬を出してもらって、待合室で呆けていると見慣れないナースが話しかけてきました。

「公的さん、来週どうしましょう? 先生は午前中に来てほしいんですけども、水曜日はかなり混んでいるんですよね」

 なんだこの可愛いナースは……やけに馴れ馴れしいしネイルもキラキラしている……と思いながら受け答えます。大人ですから。

「じゃあ来週の火曜日の……10時で」

「ふふ 10時ですね わかりました」

 なんで笑ったんだ……ひょっとして俺のこと好きなのかこの人……と思っていますがそんなことはおくびにも出しません。なぜなら大人ですから。

 その可愛いナースとおとなしめで堀北真希に少し似ている(雰囲気も)ナースが会話しており、お互いの髪を撫でている光景を目撃した僕はたまらず勃起。チンポも大人ですから当然勃起の一つや二つはします。

 勃起を押さえながら会計を済まして薬局へ。先週と全く同じ薬を貰って帰宅しました。

 それからのことは覚えていませんが、無限にゲームをしていたような気がします。ダメ人間です僕は。死にたくなりました。一体何をしているんでしょうか。こんなことしている場合じゃないのに……。

 明日こそ真人間になるぞと誓って日記を終えます。

1812年

 今日も今日とて日記。

 今日は10時ごろに目が覚める。何もやる気になれず一時間ほど布団の中で天井を見つめる。見つめ続けていると天井が自分を圧迫してきた感覚に襲われてたまらず布団から飛び出る。

 その後GTAVで警察官を殺しまくる。惜しいところで殺される。コントローラーを壁に投げつけると親父が起きてきて「そういうことはしてはならない」と叱られる。

 何もすることがなくて退屈だ。本当は図書館に行って勉強する予定だったが、身体が動かない。タバコを吸う。残りの本数が少なくなってきた。

 記憶が飛んでいつのまにかお昼になっていた。眠いので昼寝。夕方の四時に目が覚める。

 インターネッツを巡回していたらそういえば今日図書館に予約した本を取りに行かないと期限切れになってしまうことがわかる。慌てて着替えて図書館へ。親父から千円を奪ってついでにタバコも買う。

 ハイライトを買う。女の子の店員と手が触れる。久しぶりに人と肌が触れ合った。唐揚げを買って自転車を漕ぎながら食べる。惨めな姿を晒し続ける。

 図書館に到着。図書館システムの更新とやらでカードを新しくする必要があるとの張り紙を見て、カウンターの司書(女)に言うと、「そのカードは使えますよ」とのこと。恥をかかせやがって。殺す。

 無事、図書館で中上健次枯木灘」と「奇蹟」を借りる。俺に似ている作家らしい。本当だろうか?

 公園で女児が遊ぶ姿を見ながらタバコを吸おうと思ったら公園の敷地内は全面禁煙とのこと。怒りが満ち満ちてくる。公園で吸えなければどこで吸えるのか。腹立たしい。世の中こんなことばっかりだ。俺はいつも迫害される側にいる。

 家に帰ってくると親父がタバコをくれとせがんでくる。怒鳴りながら拒む。親父は昼間からずっと酒を飲んで下らない映画を見ている。下らない人生を歩んでいる。俺もきっと。

 飯。つけ麺。毎回同じ味で飽きてくる。「うまい」と表情を取り繕う。

 現実の生活はこんなもの。インターネットの知り合いにSNSをやめるよう忠告されたためTwitterはあまり見なかった(当社比)が、俺のツイートが伸びている。フォロワーの数も増えていた。多分すぐにリムーブされるけど、新しいフォロワーのみなさん、俺はこんな人間です。リムーブしないでね。

 今日はこんなところ。死ぬほど退屈な日常。明日は精神科。ひだまりの中、本を読んで過ごしたいが、きっとそれも出来ないんだろう。コンサータを貰いたいけど精神科医は資格を持ってないらしい。だから医者を変えることを相談する。

 睡眠薬が切れていた。よく眠れるだろうか。入眠出来るだろうか。不安の種は尽きない。チャイコフスキー1812年」を爆音で流して気を紛らわせる。

 今日の活動はこれで終了。

千のナイフ

 皆さんは生まれ変わったら何になりたいですか? 僕は千のナイフです。

 いま、特撮の「ケテルビー」を聴いています。とってもいい歌ですよね。

 さて、日記ですが、今日やったことはありません。マジで何もない。ところで、これを書いている最中にもタバコを吸っているのですがそろそろタバコが切れそうです。誰か買ってきてくれませんか。ハイライトです。

 大学の不合格と共に二浪が確定し、親から「バイトしろ」という圧がかけられています。しかし、今日は何もしませんでした。出来ませんでした。外国で飛行機が堕ちました。乗客に日本人はいませんでした

 読まなければいけない本、やらなければいけない勉強が多すぎるのですが、何もできず、絶望。

 生き地獄。

 書くべきことがなく、有意義とは程遠い生活を送っていることがわかる。

 Twitterやめたい。

 人間やめたい。

 そうだ。今日は人生が詰んでいることに思いを馳せたんだった。

 人生が詰んでいると分かっていても俺が生き続ける理由ってなんですか。

 誰も教えてくれない。

 俺も答えられない。

 中島みゆき「旅人のうた」でお別れしましょう。

 「あの日々は消えても まだ夢は消えない」

 ところで俺の夢ってなんだっけ?

あした

 ブログタイトルは「あした」ですがあした何かあるわけではなく、中島みゆきの隠れた名曲「あした」を聴いて感動したからです。音楽を聴いて感動できる感性がまだあるんだ……とそのこと自体も感慨深く思えたりしました。

 そうそう、聴いたといえば何かと話題になる欅坂46の「世界には愛しかない」も聴きました。途中途中挟まれるポエトリーリーディングで素人臭さ(=十代の少女らしさ)を強調しているのだなあと思いました。秋元康というのはアイドルを一個の物語として考えている節があるので、少女たちが素人から脱出してアイドルになっていく過程を描いていきたいのでしょうね。

 思えば「あした」も「世界には愛しかない」も愛について歌った曲です。もっと正確にいえば愛を通じた人間の心の動きですか? よくわかりませんが、そういうことにしておきましょう。

 3/4(土)は親戚たちと会いました。伯父の還暦を祝う会でした。一年半ぶりくらいに親戚の集まりに顔を出したものですから物珍しい目で見られ、何かと「最近どう?」とか「将来どうするの?」と聴かれます。これは断言出来ますが、「将来どうするの?」と聞かれて明確に答えを返せる人間はそもそもそんな質問をされません。

 しかし、僕ももう子供ではないですから、大丈夫ではない物事にたいしても少し暗い笑顔を浮かべながら「大丈夫ですよ」と返せる程度のスキルはあります(大人にはなりたくないものです)。ここで「何が大丈夫なの?」と聞いてくるひと、それは俺が聞きてえよ。

 てなわけで人間の生活は粛々と進んでいくがみなさんはどうですか? 大丈夫か? まあ、俺は大丈夫じゃねえけどよ。

 Twitterで「茶番センサー」なる言葉が流行ってましたね。本当にくだらない言葉だと思います。それが茶番であろうとなかろうと、僕らのこの苦しみは決して茶番なんかじゃないんだ。人生を茶番だとかなんだとかいって早々に人生を降りた気になっている人間たちの振る舞いほど醜いものはないでしょうね、早く死んで欲しい。お前の死は徹底的に茶番じみた光景だったな、と嘲笑ってやる。

 人の悪口ばかりが出てきてしまいます。よくないことです。みなさん、もっとおだやかに。

 というわけで僕はこれからX JAPAN「紅」を聴いて寝ます。小泉純一郎X JAPANのファンだったらしいけどカラオケで「紅」は歌うんだろうか。

地獄の中でサンバを踊る

 また自殺未遂をしてしまった。

 また重い入り方ですみません。公的抑圧のブログってこんなんじゃねえだろ、とよくおしかりを頂きます。鬱になって以来自分を見失ってしまったもんですから、どうも文の書き方が分からない。

 で、今回の自殺未遂はそんなに大規模なものじゃなくって、俺が飛び降り自殺をしようとしたら、親父に羽交い締めにされた、とかそんな感じでした。すぐさま家族会議がスタートします。議題は「なぜ俺は死にたいのか?」

 ところで、自意識を色々と犯された人間は誰しもワナビー願望があると思い、これをかっこよく言うと「表現欲」といったところに落ち着くと思いますが、僕もこれを発症しています。実は小説を書いているのも単に自分のワナビー願望だと思うし、そんな不純な動機で書いていていいのか、でも何か書かないと落ち着かない、そういうことでやっています。

 で、稀にワナビー願望を持って成功する人もいますが、大抵は夢破れて普通の人になっていくと思います。僕も、おそらく普通の人の方だと自覚していて、なぜかというとあらゆることに対して僕は才能がないんです。

 顔も醜悪。運動もできない。絵もかけない。歌は下手。頭は悪い。小説も上手く書けない。

 ほら、何事にも才能がないでしょ。「表現欲」というものを持って世の中に出ていこうとするには絶望的な才能のなさです。

 というわけで、絶望しました。何も出来ない自分が許せないし、生きていくことの意味とか価値とかがあんまりないなあと思っています。います、というのは現在進行形で僕はチャンスがあったら自殺するつもりだからです。

 そんなこんなを親に話したら「そんなことはない」と否定してきます。否定してきてくれるのは嬉しいですが、僕に才能がないのは事実だし、多分あらゆる能力も平均未満で、つまりこの社会で生きていく資格がないと思っています。

 正直、今は生きていく意欲すらありません。なぜ人は生きるのでしょうか。なぜ人は自殺を止めるのでしょうか。望みもせずこの世に生を受けてしまった以上、死ぬタイミングくらいは自分で選択出来るようになるべきだろう、といつもそう思っています。

 正常な人はこの発想を受け付けないみたいで、父にも母にも否定されました。父も母も僕を生かしてどうしたいのでしょうか。僕にこの苦しみを一生背負わせるつもりなのでしょうか。

 もう何も出来ません。死ぬことも出来ないと思います。卑怯者です。臆病者です。生きていく意欲もないけれど死ぬことも怖くて出来ない、本当にゴミみたいな人間だと思います。

 このままゴミみたいな人生を送ることになるんでしょうか。地獄だと思います。地獄よりももっとひどいです。このまま行けば廃人になってしまいます。どうにかならないでしょうか。誰か僕を救ってくれませんか。

 そんなことを思いながら「ENGEIグランドスラム」という番組を見ていました。数多のお笑い芸人が面白いことを言って笑いを取る姿を見ていると、僕もお笑いをやってみたいなあと思い始めていました。

 でも、僕にお笑いの資質はないでしょうから、無理な夢です。そもそもお笑いで食っていくのは無謀に無謀を重ね着したようなものです。今も何万人規模の若者が、お笑いで飯を食っていこうと切磋琢磨していますから、そんなところに飛び込んでもこてんぱんにのされるだけです。

 でも、何か変なことを言う、自分が面白いと思うことを言い続ける、これくらいはお笑いで飯を食わなくても出来るかもなあとぼんやりと思っています。

 そうだ! 自分が面白いと思うことをやり続ければいいんだ!

 だから、これからは地獄の中でサンバを踊ろうと思っています。