妄想サンバ

助走をつけた妄想がやがて暴走していく文章になる

死にゆくものと生き残っ(てしまっ)たもの

 友人が亡くなった。自殺だった。19歳だった。ここから先何もとりとめもなく文章が続いていく。何も構成を考えていない。許して欲しい。長くなるかもしれない。同じことを二度書くかもしれない。でも、それはすべて俺の考えの足跡だと思って許して欲しい。

 俺と彼は高校の時からの付き合いで、まだ4年ぐらいしか経ていないけども、高校の時にはじめて出来た友達だったし、最重要の友達であったことは確かだ。少なくとも、俺達の友情を疑うことはなかった。

 だが彼は死んだ。なぜだろう。

 いま、彼がなぜ死んだか考えるのは不毛だった。彼の死が不毛だとか、ましてや彼の生が不毛だったとは思っていない。少なくとも彼の生は、戦いは価値のあるものだった。それは等しく、人類に与えられる人生という戦いの中でもかなりの価値を得ていたはずだった。

 だが、なぜ彼が自殺したのだろうということを考えずにいられない。答えはない。未来に希望はないからか。じゃあ、俺も同じように感じている今、なぜ生きているのだろう。

 わからない。俺の人生にはわからないし、俺の人生が進んでいく中で、俺の感情のスタンスはそのスタンスを得た根拠が分からないまま湧いて出たものだった。何もかも分からないまま突き進んでいっている人生を、俺は何も分からないまま眺めている。

 彼はそうではなかったかもしれない。あるいはそうだったかもしれないが、そういった自分が許せなかったのかもしれない。もう何も分からない。結局、彼の死も俺の人生の「わからない」というピースに回収されて、咀嚼されて、終わるのか。

 終わらせたくなかった。彼との関係を考えた時に、そんなことで、「わからない」なんてそんな大まかなカテゴライズで終わらせられるほどの存在ではなかったし、そう扱っていたくもなかった。

 彼は俺に「幸せに生きてください」と言った。彼は不幸だったのか。それは分からない。幸せかどうかなんて、他人が決められるような基準ではない。そう思う。

 では俺は幸せであったのか。間違いなく幸せな人生を歩んでいるとは思えなかった。幸せな人生を歩むことへの嫉妬に満ちあふれている。もしかしたら俺のそうした言動が、彼の幸せを蝕んでしまうような結果になったのではないか。もう何も分からない。

 ふつう、人は「自分は幸せだ」と感じる時に幸せであると感じることはない。それは後から思い出すように「あの頃は幸せだったね」と追憶する形で現れる。じゃあ、「幸せになってください」って一体なんなんだ? 俺がこの先、天寿をまっとうするその瞬間に「幸せだった」と言えるだろうか。でも彼はそのような状態になってくれと祈った。

 幸せになりたいと祈って幸せになれることがあり得るのだろうかと思う。自分の経験を思い返すと、そんなことはごく僅かな成功しかなかった気がする。いつも、俺が幸せだと感じるのは当初考えていたこととは全く別のように物事が展開していって、結果的に「あ、あれは幸せだったんだ」と気付く、そのプロセスだ。

 彼との日々もそのプロセスだった。彼と出会ったのは高校に入って一番最初の日だった。そこからどんどん仲良くなっていた。少なくとも、一番最初に仲良くなってはいなくても、5番目くらいにはもう仲が深くなっていて、そして俺達の関係は高校を卒業しても続いていた。俺が大学受験に失敗して浪人することになっても、彼は時に鋭く、怠けた生活を続けた俺にツッコミを入れ続けていた。そうしたことをずっと繰り返していた。幸せだった。俺の生活が苦しくても、でも友達さえいればなんとか幸せに、その日限りでも楽しい気持ちで終われる。そんな毎日だった。

 でももうそれももう終わった。涙を流しながら、苦い表情で、でもどこか楽しげな表情で、記憶の中で彼と戯れていた時間を追憶することしか出来ない。彼と再び幸せな時間を構築することは出来ない。その機会は絶たれてしまった。

 なぜ俺は今涙を流しているのだろう。覚悟は出来ていたはずだ。彼はもう随分前から自殺を仄めかし続けていた。俺はそれを積極的に止める必要があったはずにちがいない。でも、それをあえて積極的に止めなかったのは俺本人のはずだ。じゃあなぜ泣いている? 彼が一切の苦しみから解放されたことは喜ばしいことに違いないのに、なぜ泣いている?

 「もっと強く自殺を止めておけばよかった。半ば強引に止めるべきだった。そうに違いない」そういう後悔からの涙があるのも間違いない。でも、その後悔は俺の後悔だ。俺が後悔しなかったからといって、彼の人生が幸せになるかどうか、責任は大きすぎて俺の小さな両腕では抱えきれない。

 「悲しい」という感情もそうだ。今俺が悲しい思いをしたくない、それだけのために、彼の自殺を止めることは出来ただろうか。

 そして、そのようなすべての後悔や悲しみは、俺一人のものであることに違いはないだろう。俺の後悔や悲しみが消えたからといって、では彼の悲しみが癒えるかということはない。そして事実、癒えなかった。

 彼の未来がささやかな希望とささやかな幸せに満ち溢れたものである。と僕ははっきり断言できなかった。もちろん、そのことは考えていた。人間は常にささやかな希望とささやかな幸せに支えられて生きている。たまにそれを叩き潰そうと巨大な絶望が立ち現れるが。大抵は負ける。人生は戦いだ。負け戦だ。だけど、絶望に負けて、ズタボロにされた俺の心の傷口からささやかな幸せと希望が芽吹き出す。だからまた人生に向かって挑んでいく。必ず負ける。その繰り返しだ。時々勝つこともある。

 これが、俺は人生という営みで最も美しいところだと思っている。だから人生は戦いなんだ。生きているだけで俺達はずっと戦い続けてきた。でも、幸せではない。美しいかもしれないし、価値もあると俺は思っているけど、これは幸せな生き方ではない。

 俺の人生の営みをそのまま彼に適用するにはあまりにも傲慢すぎるが、彼はこのシークエンスに耐えきれなくなったのではないか。この無意味な戦いに。育てた幸せが花開いてそのまま枯れていってしまうというような、そういう消耗戦に。

 俺はそうした彼の戦いを、生き様を限りなく賞賛し続けることになると思う。最後に自殺という道を取ったからではない。彼は幸せな息吹が何者かに吹き消されることを嫌った人間だったのかもしれない。大事に育てていた希望の芽が摘まれた時、本当に悲しんでいる人に違いない。そして、それが出来るということは彼は限りなく、そして間違いなく優しい人物であったに違いない。

 ここからは完全に俺の推測で、親しい友人にも大ツッコミを食らうかもしれないけど、そうした優しい人物が、耐えられなくなったのかもしれない。優しければ優しくあろうとするほど残酷な人間になっていくこの分裂的な生き方に耐えられないのかもしれない。なぜか。彼はやさしいから。やさしい人間が、無意味とも思えるようなもののためにわざわざ希望の種を傷口に埋めるようなことを延々と繰り返していれば、そは純粋に、自分自身の無意味さを感じ取るのではないか。希望の種にやさしくしようとしたとき、彼は死を選んだのかもしれない。俺には出来ない。そして俺の友人たちの間で出来るような人間もいないだろう。

 俺たちは普段からこの欺瞞から目をそらしながら、それでもなんとか生きている。彼は欺瞞を許さなかった。正義感が強いとかそういうことは特に思ったことがなかったけど、でも心の中での正義感はきっと強かったはずだ。彼は生の欺瞞のあまりの醜悪さに直視できなかった。だから死んだ。不謹慎であまりにも下卑た言い方をすれば、崇高な死、ということになる。

 じゃあ今俺が感じている後悔や悲しみはどうやって説明すればいいのだろう?

 いま、ここまで延々と書いてきてはじめて思いついた。「彼の自殺を止めなかったから」「彼の死が悲しいから」だ。

 延々と書いてきて、結局これだった。俺は彼の自殺を止めるべきだったのだ。それは、俺が悲しいというエゴイズム的な理由もそうだったに違いない。けど、最も止めるべき理由は彼の戦いが価値あるものだからだ。こんな優しい人が死ぬなんてことはあっていいわけないからだ。代わりに俺が死ねばよかったんだ。こんなゴミみたいな俺にも優しく接してくれた彼が自ら死を選ぶなんて、そんな悲しい結末があっていいはずがないからだ。

 これはエゴだ。俺のエゴだ。だがエゴで何が悪い? 結局、この先彼が生きたとしても先に書いたのと同じように、彼の人生そのものが苦しみで、辛くて、みずから命を絶ってしまいたいという状態に陥るかもしれない。

 でも、彼がそうなったら、俺が彼に寄り添って、彼の苦しみを幸せで潰していくべきだった。人間の欺瞞なんて許せないけど、倒すべきもので、そして人間の欺瞞に彼が立ち向かう後押しをやってやるべきだったんだ。俺は、今気づいた。彼を助けてあげる、は傲慢だとしても、俺は彼に寄り添うべきだった。

 でももうそれは許されない。彼はもういない。

 俺は結局これを書いてどうして欲しいのだろうか。悲しみや後悔を慰めてほしいのだろうか。自分の人間としての浅薄さが嫌になってくる。そしてそれは人生の欺瞞へと通じていく。

 こんな文章を書いてももう何もならない。彼は生き返らないし、楽しい日々は戻ってこない。

 だけど彼は俺に生きろと言った。多分それはこの欺瞞と戦えってことだ。

 そのきっかけを今、この文章を書きながらつかもうとしている。